止まらない涙をぬぐえ





 そうだよ、俺は真琴のことを見失ったことなんかない。
 ずっと見てきた。ずっと。真琴のことだけを。

 学食から走り出る間に真琴の背中は大地の視界からは消えていたけれど、なぜか大地は確信していた。絶対に見つけられる。見つけて、追いついて、捕まえる。
 がっしゃがっしゃと、肩からかけたトートバッグの中身がやかましい音を立てていた。なんだって俺は今こんなに大荷物を持っているのだろうと、昼からの講義に使う教科書やノートなのにその場に投げ捨てたくなる。
 それでもいいと思った。大地にしては珍しいことに。周りからどう思われるかとか、これからのこととか、そんなのは関係なかった。今、真琴を追いかけることが何よりも大事だ。それ以外はいらない。なにも。
 大学のキャンパス内を全力疾走する。のんびりとその辺を歩いていた学生たちがなんだなんだと奇妙な目でその大地を見送っていた。

(……ほら、見つけた!)

 走っていく先に、ばたばたと逃げていく真琴の後姿が見えた。



「ちょっと、待てよ!」

 後ろから聞こえてきた声に、真琴はぎくりと後ろを振り向いた。足は、止めない。
 肩越しに、恐ろしい形相をして走ってくる大地が見えた。あんなに怖い顔をした大地の顔を、真琴は見たことがなかった。

「やだーー!! またないっ!」

 子どものように叫んで、真琴はまた走る足を速めようとした。パンプスのかかとがアスファルトに当たってカツカツとうるさく音を響かせた。
 どこへ行こうとか、そんなことは考えていなかった。とにかく、大地の顔を見たくない。このまま大学を出て、駅まで走って電車に乗ってしまえばいい。どこか遠く、大地の追いつけない場所に行ってしまいた。

(なんで、来るのよ〜っ!)

 走り続けて息が苦しい。ひゅっ、と肺が鳴って、途端になぜかさっき大地の前に座っていた女の子の顔を思い出した。じわりと浮かんでくる感覚はとりあえず無視するしかない。息をのみこむと足が止まりそうで、真琴はとにかくめちゃくちゃに走った。

(……どうしたもんかな)

 姿さえ見つけてしまえば、追いつくのは簡単だった。身長差もある。腐っても大地は男だし、真琴は女の子だ。
 手を伸ばせばすぐに真琴のことを捕まえられる位置で、大地はここまで来ても躊躇していた。
 勢いで追いかけてきてしまって、夢中で追いついたけれど嫌がっている真琴を無理矢理引きとめるのもなんだか違う気がしないでもない。

(えぇい、なに迷ってるんだよ俺はここまで来て!)

 バカか俺は。同じ間違いを何度も繰り返そうとしている。覚悟を決めて肩か、腕をつかもうと大地が手を伸ばしたその瞬間、真琴の身体がふい、と視界から消えた。
 どちゃん、というみすぼらしい音と「あっ!」という真琴の悲鳴が下の方から聞こえる。転んだのだと大地は瞬時に理解した。
 
「……っ、つかまえた!」

 しゃがみ込んで、その場に倒れたままの真琴の腕をつかんだ。 

「ていうか、大丈夫!? 怪我、ない?」

 心配の方が先に立つ。手をついていればその手をひねっていたりすることもあるし、そうでなければ膝や顔から地面に落ちたということになる。
 力なく動かない真琴の身体を引っ張り上げてやると、真琴はうつむいたまま嫌々をするように大地の腕を払おうと暴れた。
 全力疾走のあとに転んだせいで乱れた髪が顔にかかっていて表情が見えない。

「もうやだ! 大地くんなんてやだぁ〜! はなしてぇ!」
「離したらまた逃げるだろ!」

 大きな声が出た。びくりと真琴の肩がふるえて、そして振り払うような動きをやめた。
 それを見て、大地は今までかなり強く真琴の腕をつかんでいたのに気がついて少しだけその力を緩めた。

「人の顔見て逃げるなよ。これ以上傷つくことなんかないと思ってたけど、結構ダメージあるぞ」

 今度は少し冷静になれたと思う。
 地面にしゃがみ込んだまま立ち上がらない真琴と目の高さを合わせようと、大地もその場に座り込んだ。まだうつむいたままの真琴がどんな顔をしているのか分からないけれど。

「だ、だって」
「……え?」
「だって、大地くんが……らんち、ち、違う子と……ふぇ、ぇ……」
「え? ……えっ? なに、泣いてるの?」

 顔を覗き込もうとするが、真琴が顔をそらすので確かめられない。
 けれど、か細く聞こえてくる声は間違いなく嗚咽交じりで。
 そんな真琴の声は、今まで一度たりとも聞いたことがなかったから、大地は途端にどうしたらいいのか分からなくなった。

 嫌われたのだと、そう思っていた。
 最近は全く連絡もなく、友人たちで集まると言っても真琴は参加してこなかった。(というか、大地がどうしても外せない用事で欠席するときには真琴は出てきていたらしい。それを聞いて、そこまで嫌われたのかと大地は本気でへこんだのだ)
 学校でも顔を合わせない。どこへ行ってもいない。
「友達だと思ったことがない」そ大地が言ったその言葉を真琴がどういう意味で受け取ったのかは確かめられなかったけれど、大地が言いたかった意味でとらえてくれたとは到底思えなかった。
 だから、嫌われたのだろう、はっきりしなかった自分が悪かったのだと思っていた。

 久しぶりに顔を見たのに、視線が合っただけで逃げられて。

 それは思っていたよりも大地に深刻なダメージを与えていた。
 思わずなにも考えずに追いかけてきて捕まえてしまったけれどずどんと心が落ち込んでいるのが分かる。

(まさか、泣くほど嫌がられるとは……)

「やだ……もう、やだぁ、あんなの」

 それでも何日振りかで顔を合わせて、そしてつかんだ腕を離せなかった。
 嫌われていても、顔も見たくないと思われていても、泣いている真琴から離れられない諦めの悪い自分。真琴のことが好きだという割には自分のことしか考えていない身勝手なところなど、改めて考えてみると我ながら嫌になる。
 真琴に嫌われるのも当然だ。

 ぐずぐずと真琴は言葉にならない嗚咽を漏らしていた。
「泣くな」とも「思い切り泣け」とも言えず、大地は彼女の腕をつかんだままその場で途方に暮れた。

「た、大地くん……」
「なに?」
「あ、あのひと、誰……?」
「あのひと?」
「ランチしてた子……しらない子だった……」

 ぐすんと鼻を鳴らして真琴が顔をあげた。
 今まで意識していなかったのに、あんまり近いもんだからその顔をまっすぐに見返すことができなくて大地は目をそらした。明後日の方を向きながら、答える。

「え? あぁ、……あれは、何ていうか誘われて、断れなくて……」
「うそ……」
「うそって……嘘じゃないよ。一人なら一緒にゴハンに行かないかって誘われたから行っただけ。断る理由もなかったし」

 まあ、向こうはそういうつもりじゃなかったみたいだけど、少なくとも俺はそのつもりだった。ただ、昼休みに食事をするのにたまたま顔を合わせたから一緒になっただけだ。他に何の理由があろうはずもない。
 少し言い訳がましくそんなことを考えながら、大地は一言だけ付け足した。

「まあ、証明できるわけじゃないから。信じてもらうしかない」

 ぼろり、と真琴の目から涙がこぼれた。
 信じるしかない。大地が今まで、真琴に嘘をついたことなんかないんだから。大地くんがわたしにウソを言うはずない。だから……

(信じてもいいんだよね?)

 真琴は少しだけ怖かった。本当は、真琴には言えないような理由があって、それを大地が隠しているんじゃないかなんて、そんなことは考えたくなかった。

「なんでいくの? なんで、断らないの?」
「なんでって、言われてもな……。もしかして、断ってほしかった?」

 そんなバカな。
 今日はなんだか様子がおかしいけれど、でも真琴に限ってそんなことがあるわけない。俺のことをただの友達だとしか思っていない子なんだぞ。
 だから、言ってから自分で否定した。

「って、まさかね。……友達の誘いを無下には断りませんよ、俺は。それだけ」

 友達。
 ぐすり、と真琴がまた大きくすすりあげた。わたしのことは友達じゃないっていうのに、あの子は友達だって言うの?
 さっき、学食の前で立ちつくしていたときに頭の中に思い浮かんださまざまなことが、想像したくもなかったことなのにまた蘇ってくる。
 大地と、真琴ではない女の子の二人きりの姿。

「やだよ……、ヤダ。ねぇ……、じゃあ大地くん、あの子に映画に行こうって言われたら行っちゃうの? お部屋に来てって言われたら、行くの?」
「いや、それは……。なぁ、どうしたんだよ、さっきから。何か、変だよ。お琴さん」

 大地はそこで真琴の顔を見た。さっきからずっと腕をつかんでいるせいで真琴との距離が近い。
 こんなに近くから真琴を見たことは、今まであっただろうか、と考えて、実は何度かあったのを思いだす。まこは無防備すぎて、俺に対して緊張感がなさすぎたんだよ。
 ……俺だって、まこのことをどうにかしてやりたいと思ったことがあるんだぜ? やろうと思えば、できる距離にいたんだから。
 そのたびに、なにも考えていなさそうな無邪気であどけないまこの顔を見て、踏みとどまったのは俺自身の意志だ。

 けれども、今の真琴の顔は今まで大地の理性を押しとどめてきた表情とは違っていた。
 それこそ、こんな真琴は今までの長い付き合いの中で見たことがない。
 顔も見たくないほど、目があった瞬間に逃げ出すほど嫌いな男を見るときに、女の子はこんな顔をするだろうか。

「どうしたの? ねぇ、なんでそんな辛そうな顔してるの」

 真琴が力なく首を振った。答えたくない、話したくないと言っているようにも見えた。
 地面にしゃがみ込んだ(今更気がついたことがだ、二人とも地べたに座り込んでいた。道理で冷えるわけだ)真琴のスカートに包まれた膝にぽたり、ぽたりと涙が落ちていく。
 こんな風に真琴が泣くのを初めて見た。
 思わず呆然としてスカートに右と左、二カ所の染みができていくのを眺めてしまう。

「大地くんが」

 うつむいたままの真琴が小さく声を出したから、大地はその声を聞き逃さないようにすべての神経を集中させた。
 たとえこれが別れの言葉でも。もう、仲のいい友達になんか戻れなかったとしても、俺は真琴のことをすべて受け入れるから。

「大地くんが、他の女の子と一緒にいるの……やだっておもったの」
「……………………え?」
「頼まれたら断らないんだったら、一緒に映画も行くでしょ? お部屋も遊びに行くんでしょ? そんなの……。そんなのやだよ……、大地くん、ほかの女の子のところになんか行かないでよぉ……」

 ああ、お琴さん。
 いつの頃からか、真琴のことをそんな風にからかい半分で呼ぶようになっていた。彼女のことを好きなんだと気づいたとき。そして、その想いは彼女に告げることなく心に秘めておこうと決めたとき。
 きっと、「お琴さん」と呼んでいればいつかは友達に戻れる。好きだとか愛しいだとか、そんなものを忘れられるはずだと思っていた。
「お琴さん」は俺のことを好きになったりしないんだから。
 そんな風に信じ込もうとしていた。俺はお琴さんを失うのが嫌だったから。

「ち、ちがう!」

 大きな声に、びくりと真琴が震えるのが分かった。

「ちょっと……あの、なんか、色々ありすぎて混乱してるんだけど、とりあえず、さ。俺は……頼まれたからってほいほい女の子の部屋に上がり込んだりはしません」

 伝われ。ちゃんと。

「……君の部屋、以外は」

 伝われ。

「……だから、あの、ちょっと、離してくれると嬉しい、かな」
「わっ……、あ、あの、ごめんなさい…っ」

 真琴が慌てて大地から離れた。
 いつの間にか、大地の首を絞めそうなくらいの勢いでぎゅっとしがみついていた。
 いったい、いつから……? 恥ずかしくて顔から火が出そうになる。……うぅん、もうそれくらいじゃ済まされないほど恥ずかしいことばっかりしたり、言ったりしている気がする。

(どうしよう、わたし、……すごく大変なこと言っちゃった気がする……!)

 相変わらずうつむいたままで、取り繕うように髪を撫でつけるような仕草をする真琴に、大地はちょっとだけ口元を綻ばせた。







「うん。とりあえず誤解は解けたかな」
「あ、うん。……あの、えっと……」
「えーと。その……なんだ。とりあえず、泣いてた理由はそういうことでいいのかな……」
「う、うん……」

 落ち着いてきたら、大地がすぐ近くにいるということがようやく分かるようになってきた。
 やけにドキドキすると思ったら、服装に心当たりがあるからだ。
 あのとき――冬のバーゲンに無理矢理につきあってもらったときに、真琴が見立てた服を着ているのだ。
 上から下まで、すっかりそのまま。

(大地くんらしい……)

 普通の感覚で見れば十分にカッコいい。性格もいいし、なにより気遣いができる。
 それなのに、どこか抜けていると思えるのは、こういうところなのかもしれない。他人のためにならいくらでもセンスのいいものを選ぶことができるのに、自分のこととなるとてんでダメなのだから。
 その上。

(「そういうこと」って、どういうことなのか、本当はちゃんと確かめたい……)

 今まで、そうしなかったせいでさんざん訳の分からない遠回りをしてしまったのだから。
 それなのに、やっぱり大地は大地なのだ。少し口ごもるように、今更照れるようにしながら、こっちに確かめてくる。

「それで……それはその……どういう意味で……って、聞いてもいいのかな」
「ど、どういう意味って! そ、それはその……そのままだよ」

 だけど、こんな風にハッキリ言わないところもまた、大地らしいと言えば大地らしいと思う。
 決して、――そう。こんなに大事な場面でさえも、自分の意見は二の次にしてしまうようなところも。

「ま、前に大地くんが少しは考えて、って言ったでしょ? あれから、考えて……それで」

 多分、大地くんは絶対に言わないんだろう。
 そういう人だから。

 ……だって、わたしはずっと大地くんのすぐ近くにいたから知ってるんだ。
 大地くんが、わたしのそばにいてくれたから、だから。

「大地くんと、たぶん……同じ気持ち。……だと、おもう」

 なんとも、ハッキリしない。
 だけど、自分にはこれくらいのほうがやっぱりお似合いだな、と大地は少し自嘲気味に思った。
 性に合わないんだよ、何事もきっぱりハッキリ自我を通すっていうのは。



「じゃ、もう先輩とランチしに行くとか言わないでくださいよ」
「大地くんこそ、女の子にご飯誘われても断ってよね」

 そう言ってやっと、真琴が笑ってくれた。

 こんな風になるなんて、事実は小説よりも奇なり、だ。事態は予想もつかない方向に、コロコロ転がって、そして、なんだか思いも寄らないところに落ち着いた。

 大地は照れくさそうにこっちを見て微笑んでいる真琴の、まだ涙のあとが残る頬に手を伸ばした。

(好きだよ。いつまでも、誰よりも)




 柔らかい頬にうっすら残る涙を親指で拭っている大地の手に、真琴の手が重ねられた。
 ずっとずっと欲しかったのはこの手だけ。

 手を伸ばしても届かなくて、求め続けることに疲れては諦めて。
 ずいぶんと回り道をして、時間がかかったけれど、やっと、手が届いたんだ。
 一番欲しかったものに。








届かないその手を伸ばせ・了
2010/02/07

ありがとうございました!

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