大人にならない心を揺さぶれ





 いざ、会わないようにしようと思って実行してみると、それが思ったよりも簡単なことに初めて気が付いた。なにもしなければいいだけなのだから。
 メールも、電話もしない。学校は一緒だが学部は違うので、自分の授業と自宅以外の余計な場所に行かなければほとんどその姿を見ることはなかった。
 逆に言えば、今まではわざわざ大地に会えるように行動していたということだった。しかも、無意識のうちに。

 呼び出せばいやな顔一つしないですぐに飛んでくるのが当たり前のように思っていたけれど、今更ながらにどれだけその大地の好意に甘えていたかを、真琴は思い知った。

 大地は、自分のことを好きなのかもしれない。

 そう思うと、どんな顔をして会えばいいのか分からない。今まで通りになんてできっこない。きっと、変な顔になってしまうし、態度もおかしくなってしまう。
 大地は、そんな真琴を見てすぐに様子がおかしいことに気が付いてしまうだろう。

 大地は、自分のことを好きなのかもしれない。
 ……では、真琴自身は?

 自分の気持ちなのに、それが分からない。
 だから、今はまだ、大地に会うことができない。



 珍しく授業は昼過ぎからだった。
 少し早めに大学にでてきた真琴は、久しぶりに授業が始まる時間まで図書館にでも行ってみようと歩いていた。
 昼時を少し過ぎた時間だった。食事は先に済ませてきた。風もなくて、小春日和の柔らかい日あたりの道を歩いているとすこしぽかぽかしてくるくらいのいい天気だった。 

(わたしがネコだったら、勉強なんかしないでのんびりひなたぼっこするのにな)

 のんきに考えながら真琴は学食棟の脇を通り抜けて図書館に向かおうとした。

 そして、そこで張り付いたみたいに足が止まる。



 どうして、あんなに目立つのだろう。
 どんなに遠くにいたって、どれだけの人に囲まれていたってすぐにそれと分かる。

(だって、あんなに……)

 大きなガラス張りの窓際の席に座っている姿。
 まだ、距離はだいぶある。真琴と学食棟のガラス窓との間を横切っていく学生も多くて、おそらく向こうからはこちらは見えていないだろう。(こっちからは見えているのだから、絶対に見えていないという保証はないけれど)
 顔を見たのはいつ以来だろう。一週間か、二週間か。ものすごく長い間のように思えていたけれども、実際にはそれほどでもないのかもしれない。

 久しぶりに見た大地の顔は相変わらずだった。
 いつものようにへらりと軽薄な、けれどもなぜか安心してしまうような笑顔。
 その、大地の笑顔が真琴だけに向けられるものではないことくらい、ずいぶん前から知っていた。大地は誰にでも優しいし、誰にでも等しくおせっかい焼きなのだから。
 そんなことはいまさら改めて思い出すほどのことではない。
 けれど、今日はどうしてかその顔から目が離せなかった。

 大地の視線の先に、見知らぬ女の子が座っていたからだった。

 髪も服もふわふわとした、一見して「かわいい女の子」と思えるような子だ、と真琴は思った。

(わたしとは違う感じの子)

 彼女も笑っていた。キラキラとまぶしいくらいの笑顔で。大地のあのへにゃりとした笑顔を向けられることがまるで自分だけの特権のような顔をして。
 いや、それはあながち間違いではない。
 今この瞬間、大地の笑顔を独り占めしているのは少し離れた場所で地蔵のように固まって動けなくなってしまった真琴ではなくて、ふわふわとした髪を伸ばして、ほっそりした足にかわいらしい靴を履いた彼女なのは純然たる事実には違いない。
 間に隔たるガラス窓のおかげで、二人が何を話しているのかは分からない。
 大地は時々テーブルの上にある皿に箸を伸ばし、食事をしながら彼女の話を聞いているように見える。
 時間を考えれば、当然昼食なのだろう。


 不意に真琴の頭の中に、いつだったか大地の言っていた言葉が思い出された。

―― 二人っきりでゴハンに誘うって、どういう意味か分かってるの?

 それから、千草にフォークを思い切り突きつけられながら言われた言葉。

―― そういうのにひょいひょいつられちゃダメよ、なにされるか分かんないじゃない。

 夜の灯台のシルエットを背景にした高梨の、真剣な顔。

―― 赤城と付き合ってるんじゃないんだったらさ、俺と付き合ってくれないかな?


 そして、目の前に見える光景。
 大地と、見知らぬかわいい女の子。
 二人きりで食事。
 楽しそうに話をしながら。

(……どうして?)

 ぐらりと目の前が傾いたような、大げさかもしれないけれどそんな気持ちがした。
 実際には真琴はその場から一歩も動いていないし、瞬きだってできないくらいにその二人を凝視していたのだけれど。
 だって、だって。
「俺がどういう気持ちでいたのか考えろ」と言われた。「友達だと思ったことはない」とも言われた。
 だから考えたのに。今までずっと一番の親友だと思っていた大地が、それじゃなくなってしまうかもしれないっていうことまで考えたのに。
 それで……、それで、もしかしたら、って思う答えを見つけられたと思ったのに。

(わたしのこと好きなんだったら、他の女の子とランチなんてしないで……)

 どきりとした。
 自分で考えたことに。

 大地を、独り占めしようとしている。
 まさか。大地くんは、みんなに優しいんだよ? 一人だけのものじゃない。

 赤城大地という男は、中学の頃から気付けばずっとクラス委員だった。
 自らすすんでそれになるわけではない。けれども、最後には必ず誰かに「赤城がいいと思いまーす」と推薦され、そして結局は断りきれずにやらされているのだ。
 しかし、赤城大地ほどクラス委員の役が性に合っている男もいなかった。少なくとも、真琴はそう思っている。
「俺は別にやりたくてやってるわけじゃないんだけどね」そう言って、積極的に前に出ることはしない。けれども与えられた仕事はキッチリと、ソツなくこなす。面倒だ、だの、あれがいい、それはイヤ、だのとわがままばかり言うクラスメイトたちの意見をいつの間にかひとつにまとめ上げ、そして目標に向かって一致団結させていた。
 誰かが、「生徒会長にでもなったらいいのに」と言うと、「俺はクラス委員くらいがせいぜいだよ、これ以上の仕事をするには役者不足だから」と謙遜して、実際に生徒会執行部になど興味はないようだった。
 上手くクラスになじめなくて困っていそうな子がいると、こっそり近づいていって自分たちの仲間に引っ張ってきた。逆に自己主張が激しすぎて敬遠されがちな子がいれば、やはりこっそり言って話を聞いてやっていた。
 真琴は、大地が人知れずそういうことをしているのも知っていた。
 みんな大地が好きだった。赤城大地のことを嫌いだと言う人のことなんか、聞いたことがない。(千草は別として、だ。あの子の「あいつ嫌い」は、「かなり気に入っている」って意味だということを真琴は知っている)

 それなのに、大地は誰が好きなのか、今まで真琴はそんなこと考えたこともなかった。
 知り合ってから今までずっと、『みんなの赤城大地』であることが当たり前だったから。

(わたし……、どうしたいの? 大地くんのこと……)

 そんな子に笑いかけないで欲しい。
 わたしの知らないところで笑わないで。
 わたしじゃない子と、二人っきりにならないで。

 津波のように、今まで意識すらしたことがなかった独占欲が真琴の心に押し寄せる。

(これが、ランチじゃなくてホテルのディナーだったら?)

 高梨に誘われるままについて行ってしまった。おいしいお酒とおいしいご飯に上機嫌になって、ドライブにまで着いていった。
 そして、多分高梨を傷つけた。

(お部屋に、行ってたら……?)

 酔って、夜中に呼び出して、一人暮らしの部屋に連れ込んだ(あれは真琴が誘ったのだ。大地は悪くない)
 あの時来てくれたのが大地じゃなかったら、どうなっていたのか、真琴は何も考えていなかった。何かが起こるはずもないと、根拠もないのに楽観していた。

 今まで真琴がやっていたことを、もし逆に大地がしていたら、どうなるんだろう。
 急に想像が現実味を帯びた。

 ふわふわキラキラしたかわいい女の子と、大地が二人で夜景のきれいなホテルのレストランでディナーをしているところ。
 大地はいつも真琴に向けてくれていた笑顔を、彼女にも変わらずに向けるだろう。
 楽しそうにいろんな話をして、そして、帰り道には海辺の夜景を見ながら手を繋いで帰るのかもしれない。
 彼女のお部屋に、大地が呼ばれて駆けつける。狭くて、かわいらしい女の子のお部屋に二人っきりになって。
「大地くん、帰らないで。ここにいて」真琴と同じことを言えば、きっと大地は帰らない。

 そして、それから?

 そのとき、きっと大地は彼女のことを名前で呼ぶのだろう。
 ……真琴のことは決して「まこ」と呼んでくれないのに。

(そんなの……)

 不意に、人の流れが途切れた。
 学食棟の大きなガラス窓と、真琴との間がクリアになる。

 相変わらず、大地は笑っていた。彼女に笑いかけていた。

(そんなの、絶対にイヤ!!)












 どうしたもんかな。迂闊に誘いに乗ってしまった俺が馬鹿だった、ってだけだけれども。

 大地は一瞬だけ戸惑い、そしていつものように断ればいいだけだ、と腹を決めた。
 おそらく、彼女はかなり(――今までに何度か告白くらいされたことはあるけれど、多分その中でも最上級クラスだろう)くらいついてくることが予想されるけど、そう言われたって彼女に気持ちが傾くことは100パーセントあり得ないから仕方がない。(大地は確率として100パーセント、「絶対」という現象はありえると信じている)

 そのときだ。

 それが見えたのは奇跡に近い。
 あとから思い返して、大地は自分の運の強さに感謝したいくらいだった。そして、あれで人生のすべての運を使い果たしていたとしても、多分もう悔いはない。それくらいに、この一瞬には価値があった。
 大地はそう信じている。

 大きな窓の向こう、少し離れたところに棒立ちになっている女の子がいた。

 ガラス越しに遠くからまっすぐに大地のことを見ていた彼女と、ほんの少しだけ首を動かしてその子を見つけた大地と、視線がぶつかった。
 そのほんの少しあと、彼女がびくんと、まるで、どこかにあるスイッチがONになったかのように動いた。
 ぐるり、と後を向く。
 足が動く。
 走り出す。

 大地は慌てて立ち上がった。

「大地くん? どうしたの?」
 
 目の前に座っていた彼女が不思議そうに大地のことを見上げたけれど、もう大地の目には彼女の姿は入っていなかった。
 もう一度、ガラスの向こうを見る。……まだ、見える。
 そうだよ。俺はいつだって、あの子のことを見失ったことなんかないじゃないか。
 どこに逃げたって、絶対に見つけてみせる。どれだけあの子を見てたと思ってるんだ。

 カバンのポケットにいつも「非常用に」入れてあった紙幣を一枚、テーブルの上に叩きつけた。
 がしゃん、とお盆の上に乗った皿やらフォークやらが恥知らずな音を立てるが、知ったことか。

「お金、ここに置いてくから!」

 叫ぶ。

 後日、彼女にそのくしゃくしゃのお札を返されながら「学食はお金前払いだよ?」と言われて、そんなことも忘れるくらいに慌てていたのかと、顔から火が出るかと思った。
「迷惑料として、いくらかもらっとこうかと思ったんだけどね」彼女は続けてそう言ったから、お金で解決するんだったらいくらでも、と大地は答えた。
 お金をもらっても、仕方ないしね。彼女はそう言ったけれど、結局そのあと同じクラスであるのをいいことに何かと顔を合わせ、そのたびに意味ありげな視線を向けられる羽目になったのには閉口した。

 ともあれ、その時はとにかく夢中だった。
 こんなにも、わけが分からなくなることなんかあるのかと思うくらいだ。
 今まで、人生平穏に、波風立たせず丸くおさめて生きてきた20年間だったから、余計に。

 津波のように押し寄せる、この想いだけはどうしたって避けて通れない。波乗りのように上手く乗りこなすわけにもいかない。
 馬鹿正直に真正面からぶつかっていくだけだ。

 隣の椅子の上に置いてあったカバンと上着を引っつかみ、大地は走り出した。



 逃げ出した、真琴を追って。










2010/01/21

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